遠藤彰子

遠藤彰子という画家を知っているだろうか
物語性のある神秘的な場面を巨大なキャンバスいっぱいに描いた作品は見るものを圧倒する。


大きなものはキャンバス1000号、と表記があった。
何mなのかと調べてみたがキャンバス1000号なんて描く(描ける)人がいなさすぎて、情報が出てこない…!

F(人物画比率)の500号だと3,333×2,485mm

ということはこの絵のはおそらく、4〜5m x 5〜7m !

画面を埋めただけでも驚くべき根性だ。

彼女の絵には生と死をテーマにした作品が多い。それを幻想的で荘厳な物語の一場面のように描いた巨大な画面は教会の宗教画のようでもあり、前に立つと聖像のように拝みたくなるような雰囲気すらあった。


その中でも筆者が感動した作品を?点、キャプション(画家による絵の説明) の内容と共に紹介する。



いくとせの春/ Millennial Springs Spring (2009)

この絵は4年(2008-'11)にわたって制作された四季シリーズの一つ。季節を描いたのは、四季に人間の一生を重ね合わせることで

「自然と生き物の生命同士が絡み合うような東洋的な死生観を表したいと思ったから」
四季はそれぞれが別々のキャンバスに描かれているが、作者は四作で一つの作品と捉えている。


描かれている人(の形をしたもの)たちは、桜の精。
爛漫と咲き誇りあっという間に散って行く桜の木に、日本人は昔から、栄枯盛衰の運命を感じとっていた。生死が繰り返される、逆らえない時の流れが表現されている。

墨絵のような色彩ら月光の下の夜桜を表現しているそうだ。螺旋状の流れの中でその枝は人型やどうぶつに変容していく。時間の流れを表した幻想的で神秘的な絵である。


キャプションには、
「夜風に揺れる饗宴はいつしか河となり、海となり、夜空となり、すべてが渾然とした影絵の世界となり、私自身もその鍋の中に溶かし込まれてゆく。
ひとしきり過ぎるとやがて蒙明がやってくる。そして桜の樹々ももとの姿に立ち返る。」
という詩も添えられていた。

実物の大画面を見ると、この幻想的な瞬間を目の当たりにしているような心地になった。




織られし白き糸 夏 Woven White Yarn Summer (2011) 

彼女の絵には作者自身が述べるように
「細部を見ていくことによって、作品全体の表情が変わるような感覚」がある。

現実には社会の流れと、その中に個人の日常がある。社会の流れのような「大きな物語」が全体の構図で表され、細部に個々の「小さな物語」が描かれている。


彼女の作品は、壮大な流れのような構図にまず圧倒されますが、見つめていると数十〜百の登場人物と物語が見えてくるのが面白い。



在り過ぐす 秋/ Existing and Passing Autumn (2010) 油彩、キャンバス

「在り過ぐす」は古語で、「今まで在ったものが消え、別のものに変容しながらも存在し続けるという意味。古今和歌集の頃から使われている古い言葉」(キャプションより抜粋)

同じ画面の中でさまざな場面が描かれているのは、現実と能の舞台の関係のように、「彼岸と此岸を行きつ戻りつしているような感覚」を狙ったそうだ。


木々の向こうで海は荒れ、大タコから人々が逃げ出している。海上を描いていると思いきや、泳いでいる人や海中の人々も入り混じる。
散りばめられた場面が向かう先はきっと彼岸、この作品もまた生と死というテーマが色濃く表されている。



白馬の峡谷/ The Gorge of White Horses Winter
(2008)

「終始、張り詰めた感覚に支配されながら描いた。」という本作からは、雪山の鋭い冷たさが感じられるようだ。中央の雪山は、よく見ると凍った白馬が集まった姿だ。


その周りで踊っているのは「過去の人たち」で、「再生に向かって死を祝う」なのだそうだ。生き難い冬を描いただけあって、死の雰囲気が強く漂っているが、逆にそれが生への執着を強調するようだ。


炎樹 / Flaming Tree
(2017) 油彩、キャンバス

燃える樹は木としての一生を終え、また生え変わる、時間の象徴として描かれている。一方で木というそれは生命が、火の象徴する希望や欲望に包み込まれるという、寓意としても捉えることができる。


作者曰く、「大画面にシンプルかつ根源的な要素を用いて世界観を構成することによって、自らの絵画観·死生観を問いただそう」とした絵。
この景色の反対側を描いた絵がむかい「海暮れゆけばただ広かなる」だ。


海暮れゆけばただ広かなる/ Sea at Dusk Wanes (2018)
油彩、キャンバス、金泥

描き始めた頃は春だそうだが、奇しくも2018年の末に発表された今年の漢字はも「災」。それほどに地震や豪雨など自然災害に見舞われた年だった。


自然の脅威と恵み、両方と共に生きるの隣り合わせの日本を象徴するように、大自然に圧倒される人々が描かれている。

人間は自然から離れたように見えて、その影響を強く受けながら生きている。大自然に呑まれる人々のように、我々は生死を繰り返す森羅万象の流転の一部なのだ。


雪·星ふりしきる/ In a Downpour of Snow under the Stars (2020)

銀河の中に吸い込まれるようなこの作品を描いたのは、何十年も前に読んだアイシュタインの言葉をふと思い出したことがきっかけだそうだ。

「人間とは、わたしたちが宇宙と呼ぶ全体の一部であり、時間と空間に限定された一部である。 わたしたちは、自分自身を、思考を、そして感情を、他と切り離されたものとして体験する。意識についてのある種の錯覚である。
この錯覚は一種の牢獄で、個人的な欲望や最も近くにいる人々への愛情にわたしたちを縛り付けるのだ。
わたしたちの務めは、この牢獄から自らを解放することだ。それには、共感の輪を、すべての生き物と自然全体の美しさに広げなければならない。実質的に新しい思考の形を身につけなければ、人類は生き延びることができないだろう」
(『アインシュタイン150の言葉」ジェリーメイヤー、ジョン-P.ホームズ編、ディスカヴァー21、1997年)

短くまとめると、意識が一人ひとり別々であるというのは錯覚であり、自然全体と共感する新しい感覚を身につけるべき、ということだろうか。


人々やさまざまな生物の骨が、中心の宇宙空間に向かっていく様子は、その言葉のように新しい次元に向かっていく様子のようだ。



楽園シリーズ/ The Paradise Series (1974)
人と動物たちがカーニバルを繰り広げる楽園シリーズは、1969年に構えた神奈川、相模原市のアトリエからインスピレーションを受けたという。建てた当初は豊かな森や田畑に囲まれた静かな地だった。

描かれている子供たちは遠藤自身の幼い頃、生き物たちと対等に向き合っていた記憶の現れでもある。


周囲の自然だけでなく、1972年に行ったインドでの体験も大いに反映されている。象やサーカスの賑やかな雰囲気もそうだが、インドでは、今となっては中心的なテーマである "「生」と「死」の根源" というものを感じたそうだ。


当時はヒエロニムス・ボスの画集もよく見ていた、というのは、動物、楽園という大きな共通点からも納得である。


その後、静かで豊かだった相模原の楽園は土地開発が進み、それを反映するように恐怖や不安といった感情が窺える作品が増えていった。
 


街/ Street (1979)
油彩、キャンバス

街シリーズ
The Street Series
街シリーズは、「部屋」(1976年)から描かれ始めた。
このシリーズが始まったきっかけは、作者の生まれたばかりの長男が重病にかかったことだった。
発見が遅れると死に至る、腸重積(じゅうせき)という病気だった。誰にでも平等に、突然に訪れうる死の重さを実感したという。

それが現実を見つめるきっかけとなった。それにより、想像の独特な空間を描いた四季などとは違い、建物や道路など現実とのつながりを色濃く見せるようになった。
不安に苛まれながらも希望を抱き生きる人々を描くうち、「街」というテーマにたどり着いたそうだ。


「街の中に相反するものの要素が絶えず組み合わさり、恐ろしさと楽しさが同居する、抽象性を秘めた街を表現したい」と、他の絵と同じく感情を景色に仮託するような描き方を語っている。


どこにでもあるはずの階段や螺旋、橋などのモチーフが混じり合う世界は、どこか非現実的で、シュルレアリスムのような幻想的な雰囲気も醸し出す。
(本人は語っていないが私は個人的にエッシャーやジョルジュ=デ=キリコの作品を連想した。)
このシリーズ中の「遠い日」は安井賞を受賞した
この「街シリーズ」は、「遠い日」(本展不出品)が安井賞を受賞するなど、画家としての遠藤の名を世に知らしめたものとなった。


大作
数メートルという大作を何点も描き上げた遠藤彰子は、大作に対する考えを「500号について」というキャプションで綴った。

約3m2を超える大作は、近くで見ても全体がわからず、かと言って遠くから見ても細部がわからない。一度に全ての情報を把握できないが故に、鑑賞者は前後に動きながら見なければならない。その特性を活かし、また、視点を絵に集中させるために動線を意識している。特に初期は、西洋的な三次元描写と日本の『「間」の空間』の融合を意識していたそうだ。


意識的に物質的な威圧感を利用して、流れが感じられる構図の中で画面奥に向かって流れを反転させたり、変化をつけている。
全体が目に入らないほどのサイズ、壮大な視線の誘導は、誰がみても「現実を揺らす眩暈のような感覚」を覚えるに違いない。