中宮寺と広隆寺の弥勒菩薩の違いをイラストで解説!

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今回紹介するのは、広隆寺弥勒菩薩半跏思惟像(宝冠弥勒)と、中宮寺の菩薩半跏像(寺伝如意輪観音)です。

歴史の教科書などでどちらか一方は絶対に見た事があると思います。

しかしこの2体、ポーズがあまりにそっくりなために見分けがつかない、または、こんなに似ているのに微妙に違うのは何なんだ、という方もいらっしゃるのではないでしょうか。そう言う筆者もその一人でした。

一時期、像のポーズを真似て瞑想の習慣を作っていたほど好きな像なので、気になって調べまくったこの2体の像の違いを、まとめて一気にご紹介します!

 

弥勒菩薩とは

弥勒菩薩とは、お釈迦様が亡くなって56億7千万年後に、お釈迦様が救済できなかった生きるものすべてを救うために現れると言われている、未来の仏様です[4]。つまり今は修行中の身であり、まだ仏様ではないので菩薩様です。

その弥勒菩薩が未来の救済について考え瞑想されているポーズで現されます。このポーズを、片足を組んで(半跏)瞑想している(思惟:しゆい)ため、半跏思惟像と呼びます。


実はこのポーズの像は沢山あるにも関わらず、ほぼ全ての像には弥勒菩薩だと断定できる証拠がありません。ですが、大阪の野中寺の弥勒菩薩半跏思惟像には「弥勒」という文字が掘られているほか、台座に弥勒菩薩の修行する兜率天の下の須弥山が彫られている半跏思惟像もあり、恐らく全て弥勒菩薩であろう、と考えられています[8]。

 

中宮寺の半跏思惟像 (なぜ如意輪観音?)

現在福岡の九州国立博物館で展示が開催されていることもあり、中宮寺の半跏思惟像から紹介します。

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この像は弥勒菩薩像に頻繁に見られるポーズをとっているにも関わらず、如意輪観音とも呼ばれています。呼び名に違和感があるのは、造られた後に言い伝えが変化してしまった事が理由のようです[8]。

もともとは弥勒菩薩として造られたようなのです[9]が、平安時代以降から伝えられている中宮寺縁起という寺伝が書かれた書物に、如意輪観音であると記されているのです。そのため正式な呼び名としてもそのまま如意輪観音と呼ぶのではなく、「菩薩半跏思惟像(伝如意輪観音)」と表現されているのです。

 

この像が如意輪観音像と伝えられるようになったのは恐らく、聖徳太子如意輪観音の化身とする言い伝えが影響しているのかもしれません。制作時代もよく分かっておらず、中宮寺建立の飛鳥時代からあるとか、繊細な表現はもう少し後の白鳳時代のものだとか諸説あり、謎が多い像です[1] 。

像のサイズにも聖徳太子への信仰が見られます。中宮寺の半跏思惟像は87.9cm、釈迦如来坐像(法隆寺金堂、釈迦三尊像の中尊)の87.5cmとほぼ同じです。これは尺寸王身と言って聖徳太子の等身のサイズで造られているもので、ここから計算すると聖徳太子の身長は170cm以上だった事になります。昔の日本人にしてはかなり高身長ですね(2021年2月, 九州国立博物館, 中宮寺の国宝, キャプションより)

中宮寺は、飛鳥時代に、聖徳太子が母、間人皇女(はしひとのひめみこ)の願いで建てた尼寺です。室町時代から宮家の女性も迎えるようになったため、天皇ゆかりの品々が数多くあります。

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表情 

飛鳥時代あたりに造られた仏像にはアルカイックスマイル※と呼ばれる、僅かに微笑んだ表情を浮かべたものが殆どですが、この像の微笑は特に素晴らしく、モナリザスフィンクスと並んで世界三大微笑のひとつとして高く評価されています。中宮寺門跡の言い伝えによるとこの像は聖徳太子の母后に似せたものだと言います。女性がモデルと聞いても納得できる、どこか女性的な雰囲気も感じられます。

※アルカイックスマイル…古典的微笑と訳されます。古代ギリシャのアルカイック美術が由来。全体的に感情表現が抑えられ、口元は微笑んでいる表情を指します[8]。

 

寄木造

樹の種類はクスノキで、これは7世紀の殆どの木彫仏と同じですが、組み立て方がかなり特殊になっています。寄木造という、部品のように木を組み合わせた作り方なのですが、このような作り方が主流になったのは300年も後の事であり、かなり珍しい方法で造られています。そのため、寄木造の仏像の中では世界最古となっています[6]。

 

寄木造というのはより繊細な表現を可能にする技術です。右肩には頬に当てる指の角度を調整するためか、当て木が仕込まれていますこんなに細い首を実現できたのも、基部の中心の心棒の上に、前後にわけて造った頭部を乗せることで可能にしたようです。

他にも小材が多く使われていて、細かい調整がなされ、より理想に近く繊細な表現が可能になったのでしょう [1] 。仏像制作の始まった7世紀初めらしい厳かな表現と、後半(白鳳時代)の柔らかい柔和な表現が合わさった繊細さと上品さを合わせ持った仏像になっています。

 

寄木造という造り方は後の時代に主流になったのですが、それは300年も後のこと。この像がお手本となった訳ではないようです。それと言うのも、この像は組み合わせ方がかなり特殊なのです。いくつかの木の部品を鉄釘で組み合わせているのですが、前後半分に分かれていたり、段差になっていたりと、破片を無理につなぎ合わせたような構造になっており、これは後々主流となった規則的な寄木造とは大いに異なります。[1][9]

 

このように複雑になってしまった理由には諸説あるのですが、中でも筆者が納得したのは、使う木が由緒ある霊木などで、その木を十分な大きさの像にするために、パズルのような組み合わせにせざるを得なかった、という説でした。[1] 霊木信仰といって、木に宿る精霊を大切にしていた時代背景と、この作り方が広まらなかったことを考えると、腑に落ちる説ではないでしょうか。仏像修理・修復の専門家、辻本干也は、木の合わせ目等を研究し、漫画にも描いたような組み方をしたのだろうと論じています。頭は前後に分かれていて、台座と腰の間などは怪談のようにギザギザになっているのがわかります[5]。

f:id:artrat:20210302012253j:image出典元: [1]

f:id:artrat:20210302012306j:image出典元:[9]

 

組み立て方も特殊でしたが、蓮の上に置かれた左足にも謎が浮かびます。この像は左足と、足場である蓮の間に隙間があります。踏み座があるのに足をついていないのは少し不思議ですが、足を見ればその理由がわかるようです。一説ではありますが、よく見ると一歩踏み出す前のように少し反っていて、ちょうど蓮の花に向かって一歩踏み出す途中を表現しているのではないか、という見方です。つまり人々を救うために地上に降臨した瞬間を表しているというのです[6]。

 

物語性にロマンを感じる説がある一方で、そもそも踏み座が想定されていなかったのでは、という説もあります。法隆寺献納宝物(東京国立博物館)の一五九号は、似た姿勢ですが、台座は綺麗に像の周囲で完結しており、踏み座を想定するには不自然です。そのため、中宮寺の像も踏み座が無かったからなのではないか、という説もあります。[1]

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光背 

因みに後光を表している光背という部分にも細かい模様があり、蓮の茎に囲まれた蓮華の花を中心として、周りには雲の中に仏様が何体も彫られています。細い板のような薄さですが、しっかり彫られています。写真では見づらいかもしれませんが、実物を間近で見ると、凹凸が今でもはっきり残っていました。

 

ヘアスタイル

頭の上の二つのお団子は双髻(そうけい)と言います。そこから垂髪(すいはつ)と呼ばれるおくれ毛が垂らされていてそれが所々カールしている箇所(蕨手)の表現も見られるため、合わせて「蕨手型垂髪」(わらびてがたすいはつ)とも呼ばれています[6]。

 

採色

現在は漆が露出していて全身黒色ですが、造られた当時は錆漆(土を漆に溶いたもの)、黒漆、白土(白色粘土)の順に塗り重ねた下地の上に彩色も施されていました。[1]

僅かな痕跡から体は肌色、衣に朱、台座に緑青が使われていたことは確実で、意外とカラフルだったことが伺えます[10]。後ろの光背にも赤や青などが塗られていたようです。

額や腕に釘穴が残っている箇所から、宝冠、腕輪、胸飾り、腹当など、装身具も沢山身につけられていたことが分かっています[8]。

 

博物館で実物を見た感想

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中宮寺の像は2021年3月21日まで、九州国立博物館で特別展示が開催されています。(※感染症対策のため事前予約推奨です)筆者も予約の上、朝一で見に行きました。かなり下調べをしてから言ったので、その魅力を余すところなく楽しめたと思います。

特に行ってよかったと思ったのは、寄木造りならではの木のすき間がはっきり見られたことです。特に左半身は木の合わせ目がはっきり見えて興味深かったです。実はうっすら目が開いているのもよく見えました。

機会がある方は、左足の裏を見てみてください。うっすらですが、他の場所より色が明るいのがはっきり見えます。博物館では高い台に展示されていたので、少し屈むだけで見えました。ほかにも釘の後、蕨手の髪など、記事で紹介したところを間近で見ることができました。展示概要を引用しておきます。

会 期:2021年1月26日(火)〜3月21日(日)

 休館日:月曜日

 開館時間:9時30分〜17時00分(入館は16時30分まで)

 観覧料:

一 般 1,800円

高大生 1,200円

小中生 800円

https://www.kyuhaku.jp/exhibition/exhibition_s59.html (引用元)

 

広隆寺弥勒菩薩

中宮寺の半跏思惟増と比べたいのが、広隆寺の半跏思惟像。

国宝、それも国宝第一号に登録されています…とは言っても、1という数字が凄いわけではないようです。筆者ははじめ、ランキングが1位なのかなと思ったのですが、北の県から順に登録していったというだけで数字が特別なわけではないようです。

豪族が聖徳太子のために建てたという当時から、変わることなく本尊として祀られています。中宮寺の半跏思惟像に比べると全体的に前傾姿勢で頭部の比率が大きめです。像高は123.3cm、坐高は84.2cmと、中宮寺の像とあまり変わりません(像高132cm 坐高87.9cm)。

彫りが簡潔ですが、それ故にシンプルな表現ならではの静けさがあり、上品で素朴な雰囲気です。

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一木造

この像はなんと、宝冠のてっぺんから台座まで、すべて一本の松の木から彫り起こされた一木造りです。1956年にX線で撮影したところ、指以外の全身が一本の木から彫られている事が明らかになりました。ただし人差し指と小指のみ途中で壊れてしまったのか、全く別の木で修復されたものだ、という事が分かりました。それでも、当初は指まで一木造だったのだろうと思うと驚きです。

 

細すぎる指の違和感

しかし、技術が素晴らしいとは言え、この指はあまりに細すぎるのではないか、という意見がありました。指は後の時代に修理されていることもあり、別人が作ったために少々違和感のあるつくりになったのだろう、という推測もありましたが、疑問は完全には無くなりませんでした。細さだけでなく頬との隙間は7ミリと、はっきり見えるほど離れているのも他の像と違います。飛鳥、白鳳時代の多くの半跏思惟像は指が頬に触れていることからも、広隆寺の像も元々指は触れていたと考える方が自然なのです。

こういった違和感から新たな説が生まれました。

美術院の西村公朝氏が、本来は全身に木屎漆が塗られていて全体的にもっとふっくらした見た目であった、との説を唱えたのです。つまり指、頬それぞれ数ミリずつ分厚く盛り上がっており、7ミリの隙間は完全に埋められていた、というのです[2-2]。明治修理前の宝冠弥勒像安置写真というものがあるのですが[3]、やはり現在の姿より曲線が目立つように思います


昔は金ピカだった?

漆の上に金箔も貼られていたようで、全身黄金に輝いていました。今もその痕跡は肉眼でもわかるようです。後ほど記述しますが、大正時代の展覧会では金箔が貼られていることはもっと有名だったようなので、もっとはっきり残っていたのかもしれません。中宮寺の半跏思惟像のように頭光も置かれていたようです。


有名にした写真

漫画にも書いたように、広隆寺弥勒菩薩は半跏思惟像の中でも1位を争うほど有名なのは間違いないのですが、実は今ほど有名になったのは1900年代になってからで、意外と最近のことなのです。それまでは広隆寺のもう一つの弥勒菩薩像、宝髻弥勒像のほうが有名でした。
有名になった発端の出来事は2つあるのですが、中でも大きなきっかけは、像の美しさを見事に捉えた一枚の写真でした。その写真は小川春陽の撮影で、古美術研究誌「仏教美術」(※)の記念すべき第一号(大正13年/1924年)の巻頭に載せられたものです。少し俯いた静かな微笑、カーブした細い指や鼻筋などの各部分の美しさを巧みに捉えています[7]。
これで像の美しさが知れ渡っていた先にとある不幸な事件が起き、結果的に、その名はさらに知れ渡ることとなったようです。今は知る人も少ないですが、実はこの繊細な薬指を折られてしまった事があるのです。

※小川春陽が創業した飛鳥園という文化財撮影で有名な写真館から発行されていた。


弥勒菩薩の指折り事件

事件が起きたのは、昭和35年(1960)8月18日。

犯人は大学生で、午後一時頃ちょうど監視人がいなかったのをいい事に台にあがり、像に触れました。そこから降りるときに顔が指に当たってしまい、薬指は三つに割れてしまったのです。動揺した犯人は一旦その場を去りましたが、その日の夕方に自首したので犯人探しはすぐに終わりました。指を折ったのはわざとではなく事故だったようです。


当人に取材したという朝日新聞によると、「金パクがはってあると聞いていたが、木目も出ており」、金色が剥げかけてホコリも溜まっている姿が期待外れで「これがホンモノだろうか」と感じ、監視人が居なかったため「いたずら心が起こった」と供述しており、単なるいたずら心で触れ、誤って折ってしまった、というのが指折り事件の全貌だったようです。


衝撃的な事件で新聞記者たちはこぞって記事にしたのですが、他の何社かは、あまりの美しさに陶酔して思わず台に登ってキスした時、誤って指に当たってしまった、

なんていうロマンチックな話をでっち上げたようです[7][2-1]

本人への取材とかけ離れていて、話題性のためにでっち上げた感がありますね。物語であれば面白いのですが。

 

まとめ

今回は広隆寺中宮寺、二つの半跏思惟像のちがいをまとめてみました。かなり色んな記事を読んで回ったので、大体網羅しているはずだと思います。

中宮寺の呼び名の不思議、あの唯一無二の美しさはどこから来るのか、おわかりいただけたでしょうか。広隆寺弥勒菩薩は、一度指がおられていたなんて驚きですよね。二体とも全身真っ黒か黄土色で、質素なイメージがありますが、実は昔は豪華な色や装飾で飾られていた、というのも面白いです。

この美しいどちらかの像を間近で見る幸運に恵まれたら、ぜひこの違いに着目してみてください。歴史を知っていると、何倍も楽しめるはずです!

 

 

参考文献

[1] agata107 2017年2月23日 中宮寺国宝菩薩半跏像」 新美術情報2017

http://kousin242.sakura.ne.jp/wordpress016/%e7%be%8e%e8%a1%93/%e7%be%8e%e8%a1%93%e5%8f%b2/%e6%97%a5%e6%9c%ac%e7%be%8e%e8%a1%93/%e9%a3%9b%e9%b3%a5%e3%83%bb%e7%99%bd%e9%b3%b3%e6%96%87%e5%8c%96%e6%9c%9f/%e4%b8%ad%e5%ae%ae%e5%af%ba%e5%9b%bd%e5%ae%9d%e8%8f%a9%e8%96%a9%e5%8d%8a%e4%bc%bd%e5%83%8f/

[2-1] 観仏日々帖 2017年5月20日こぼれ話~「広隆寺弥勒菩薩の指の話I」仏像の手の話④ https://kanagawabunkaken.blog.fc2.com/blog-entry-136.html

[2-2] 観仏日々帖 2017年5月20日こぼれ話~「広隆寺弥勒菩薩の指の話Ⅱ」仏像の手の話④ https://kanagawabunkaken.blog.fc2.com/blog-entry-137.html?sp

[3] 久野健(1996)「古代朝鮮仏と飛鳥仏」

[4] 古都奈良の名刹寺院 https://www.eonet.ne.jp/~kotonara/bosatuzou-1.htm

[5] 辻本 干也, 青山 茂の南都の匠仏像再見 (1979年)

[6] 東京国立博物館(2005)「中宮寺 国宝 菩薩半跏像」 https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=243&lang=ja

[7] 東京国立博物館(2016) 日韓国交正常化50周年記念 特別展「ほほえみの御仏―二つの半跏思惟像―」https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1792

[8] 西木政統 2016年06月29日 東京国立博物館「ほほえみの御仏」とトーハクの半跏思惟像 https://www.tnm.jp/modules/rblog/index.php/1/2016/06/29/ほほえみ展/

[9] 日々是古仏愛好 https://kanagawabunnkaken.web.fc2.com/index.files/raisan/shodana/shodana117.htm

 

[10]新関伸也、神林恒道 (2008年7月) 日本美術101鑑賞ガイドブック p.18, 19